硫黄島(いおうじま)から大統領宛の2通の手紙その一
硫黄島戦闘40周年式典名誉の再会 ドナルド・レーガン米大統領宛の手紙
栗林忠道陸軍中将硫黄島での戦い 1945年2月19日、日本本土侵攻をめざして太平洋を北上する米軍は、硫黄島上陸作戦を敢行、本土決戦の第一陣としてこれを迎え撃ったのは、栗林忠道陸軍中将に率いられた約2万1千名の硫黄島守備隊だった。一刻も長くここを守り、東京が少しでも長く空襲を受けないやうにと米軍の猛爆は地下でかわし、上陸してきた所を叩くという栗林中将の新しい戦術で、結果的には日本軍は36日間持ちこたえ、2万余の大半が戦死したが、7万5千の米軍に対して死傷
戦いに勝利したアメリカは、首都ワシントンのアーリントン墓地に「硫黄島メモリアル」(硫黄島摺鉢山に海兵隊員6名が星条旗を押し立てるブロンズ像)を建て、いまなお「比類なき勇気」
昭和60(1985)年2月19日、将兵やその遺族たち(米側退役軍人・遺族270人、日本側約100人)が、硫黄島で一堂に会する“名誉の再会”が行われた。
かつて日米が闘った硫黄島戦闘の40周年に日米両国はその地において、元軍人や家族、遺族の参列の下に記念碑の除幕式を開催した。そのモニュメントには片方には英語で「REUNION OF HONOR」、反対の面には日本語で、「名誉の再会」と書いてあり、日英両文で次のように刻まれている。
硫黄島戦闘四十周年に当たり、曾(か)っての日米軍人は本日茲(ここ)に、平和と友好の裡(うち)に同じ砂浜の上に再開す。我々同志は死生を越えて、勇気と名誉とを以て戦ったことを銘記すると共に、硫黄島での我々の犠牲を常に心に留め、且つ決して之を繰り返すことのないよう祈る次第である。
1985年(昭和60年)2月19日
米国海兵隊
第三,第四,第五師団協会(米国)
硫黄島協会(日本国)
式典では、レーガン大統領からのメッセージはありましたが、日本の中曽根首相からは、なんと、一言のメッセージもなかった。
この式典に、硫黄島で戦った祖父に連れられて参加した高校1年生(16歳)のマイケル・ジャコビー君は、そこで目撃し体験したことをドナルド・レーガン米大統領(当時)宛の手紙に書きました。
同時にこの手紙は、1985年に国際ロータリー・クラブが全世界の青少年を対象として行った「平和への手紙コンテスト」にて、4万5千点から最終的に選ばれ、最優秀の国際大賞を受けています。
『
米国の一人の高校生が、短いエッセーに書いた硫黄島でのわずかな一日の体験が、世界40ヶ国4万5千人の応募者の作品の中から金賞に選ばれ、米国で注目の的になっている。日米関係が経済のきしみから、年ごとに両国民の深刻な関心事となっている折、ともすれば忘れがちな過去の体験、平和のありがたみを想起させる一高校生の新鮮な目を紹介する。
マイケル・ジャコービー君。18歳。米カリフォルニア州ロサンゼルスから約50キロの公立アーケディア高校の三年生である。日本への関心はほとんどなかった。祖先がノルウェー系のため、北欧に興味を抱いて育った。両親は二歳の時に離婚。近年の米国では珍しいことではない。十歳の時から三年間、新聞配達をやり、その後も小遣いはバイトで稼いでいる。
エッセーを書くきっかけとなったのは、一昨年二月、太平洋戦争の激戦地硫黄島で行われた、旧日米両軍の生き残り兵や遺族による、合同慰霊祭に参加する祖父から誘われたことだった。
マイケル君の祖父アール・サラルソン氏(72)は、海兵隊准尉として1945年2月19日、米海兵第5師団の硫黄島上陸作戦に参加。日本軍守備隊と壮絶な攻防戦ののち、九死に一生を得て生還した。耳を裂くような砲撃戦の後遺症で、いまも難聴に悩まされているという。
祖父に連れられて行った硫黄島での光景は、マイケル君に強烈な印象を与えた。「自分の人生観が変わった」 という。ちょうど国際ロータリー・クラブが「平和の手紙」世界エッセー・コンテストを催していたので、興奮さめやらぬマイケル君は、硫黄島での体験をつづってコンテストに応募。日本の青少年約3千人を含む、世界40ヶ国4万5千人のティーンエージャーによる作品の中から、各国識者からなる審査委員会によって、最優秀エッセーに選ばれ、副賞1万ドルをもらった。(ワシントン=村上吉男特派員)
エッセーは、米レーガン大統領あての形で書かれている。
ドナルド・レーガン米大統領への手紙
大統領閣下
私の生涯に深い刻印を残した個人的体験を、大統領にも知っていただきたくペンを取りました。
私の祖父は、硫黄島の戦の悲惨さと恐怖をよく語り、私も海兵隊員だった祖父の写真を見、書物も読みました。それが1985年2月、にわかに現実のことと化しました。祖父がその戦場に私を連れて行ってくれたのです。
・・・・僧侶が焼香を済ませると牧師が説教をし、軍楽隊が両国国歌を吹奏しました。米国側の一将軍が大統領がこの式典のために寄せられたメッセージの代読をしました。
大統領。私はあの現場で、そのあと何が起こったかをぜひともあなたに見ていただきたかったと思います。両国兵士の未亡人や娘たちは互いに近寄って抱き合い、身につけているスカーフや宝石などに思いのたけを託して交換しはじめました。
男同士も近づき、最初はやや躊躇いがちに握手していましたが、やがてがっちり抱き合うと泣き出してしまったのです。かっての、この戦場での記念としていた品を「敵」に返している人もいました。
ふと気がつくと,誰かが私の頭の上に帽子をのせてくれました。かっての、日本軍人です。彼は笑顔を見せながら自己紹介し、彼が被っていたという日本軍の帽子を私にくれるというのです。祖父もそばに来て彼と話しはじめました。大人二人は若い私がこの場に居合わせて、この体験をしっかりと見聞したことを大変喜んでいるようでした。
・・・四十年前、二人はお互いに殺し合おうとしていたのです。いま私たちがいるこの場所は、四十年前に爆弾や銃弾、火炎手榴弾が飛び交い死と憎しみに満ちていたはずです。それがいま、わずか四十年でどうしてこれほど変化したのでしょうか。
祖父と日本兵の様子を見ながら、私は誰も知らない何かを知ることができたような気がしました。どんなに憎み合い相手を殺そうとして戦った敵同士でも友人となり仲間となることができるという事実を、この米国人と日本人の二人によって、全世界の人々に向かって知らせてもらいたいとさえ思いました。二人は手を携え、平和の使節として世界を廻り、その体験を人々に話しかけてもらうことができたらと思いをめぐらした次第です。
私は祖国を愛しており、祖国を守るために必要があれば戦うつもりでいます。しかし私自身の孫がいつか敵の孫と友情をもって抱き合える日があるのかもしれないと思うと、敵を殺していいものかどうか心乱れるでしょう。
その日、私は集った人々の顔を覚えようと沢山の写真を撮りました。アメリカの一新聞は、そんな私のことを「日本製のビデオカメラで感動する祖父の姿を撮りまくる一アメリカ少年」という見出しで記事にしました。だがその記者は肝腎な点を見落としています。私が記録したのは、私自身がその場で覚えた感動でした。島で私は最年少でしたから、他の誰よりもこのことを長く記憶に留めることができる。そんな身として、その日の感激を決して忘れまいと決心したのです。
私は硫黄島で感得したことを、できるだけ多くの人々に伝えるのが私の義務だと思っています。そこで、レーガン大統領、最初にお伝えする人として貴方以上に重要な人は、思いつきません。
ドナルド・レーガン米大統領への手紙 完
このエッセーは米ウォールストリート・ジャーナル紙をはじめ、地元カリフォルニア州の新聞、テレビに取り上げられて大きな反響を呼んだ。レーガン大統領にも送られ、先月、大統領じきじきの手紙が届いた。「君が目撃した涙と抱擁こそ、かつては敵同士だった日米両国民が、いまや確固たる友人、同盟国人であるあかしである」 と述べてあった。
硫黄島のあと、祖父と京都、広島を訪れた。新幹線の素晴らしさに驚き、日本の都市が混雑しているのにきれいで安心なのに感心した。広島では、戦争の恐ろしさを、残酷さをひしひしと感じたという。
硫黄島訪問の直後だったせいか、滞日十日間を通じて終始マイケル君の胸を去来したのは、二つの異なった国家、民族、文化があれほどの大衝突をして、わずか40年の間にどうしてこれほどの友情、親近感を持てるようになるのだろうか、という点だった。世界各地には、宗教、民族、あるいは民族分断や歴史的事件から数十年、それ以上の長期にわたって仲直りできない場合が多いというのに……。「将来はぜひ再び日本に行ってみたい」 と目を輝かせる。1987(昭和62)年2月9日の朝日新聞
ジャコビー少年の手紙に登場する僧侶は、和智恒蔵、海兵50期で海軍硫黄島警備隊司令だった人です。昭和19年10月、和智司令官の中佐から大佐への昇進とともに、突然、内地勤務(横須賀鎮守府付)の人事異動が発令されます。和智大佐にとっては、不本意な内地帰還でした。「ともに戦い、米軍に一矢報いん」あるいは「撃ちてし、やまん」と心に決めていたのでしょう。和智の、「何で俺だけが外されるのか」という無念さは察するにあまりある。
戦後残務整理を終えて、除隊となり、職業軍人たちはみな帰郷します。しかし、和智は自宅へは戻らず、そのまま京都の天台宗空也堂で得度をして僧侶になり、一方で、硫黄島協会を設立して、硫黄島の将兵の遺骨収集と慰霊に奔走します。ともに死ねなかった男の慟哭は、89歳でこの世を去るときまで消え去ることはなかったことでしょう。
式典では、レーガン大統領からのメッセージはありましたが、命を懸けて守った日本、日本の中曽根首相からは、なんと、一言のメッセージもなかったのだ。いかなる想いで読経したことか・・・。下種の勘ぐりはよそう。凡人を遥かに超えた高みの人に、戦後の恨み辛みなど、とうに無い。
この硫黄島戦闘40周年式典名誉の再会を日米が認識し是々非々をお互いに認識した時、恩讐を超え、真の日米の終戦となる。今年も(2006年3月8日)日米の第2次世界大戦の退役軍人、そしてその家族が第61回硫黄島戦を記念して、「名誉の再会碑」につどった。
『米国大統領への手紙』平川祐弘
つづく いおうじま から大統領宛の手紙ルーズベルトに与うる書市丸利之助その二


by 真実史観
4東大女スパイ凶産ソ連毛沢東…